近代日本の陵墓と「伝説」(高木博志)
近代日本の陵墓と「伝説」(提要)(京都大学人文科学研究所、高木博志)
近代日本の陵墓と「伝説」
(京都大学人文科学研究所、高木博志)
日本には、仁徳天皇陵(地名では、大仙古墳)などの皇室が管理し「御霊が宿る」所とされる896基の陵墓(天皇・皇后などの陵、皇太子・親王などの墓)と、それ以外の大多数の文化財としての古墳と、大きく二つの体系が存在する。
近代の陵墓につながる景観上の改造は、幕末の修陵を通じて行われた。文久2年(1862)10月14日、宇都宮藩家老戸田忠至などが中心となり、公武合体運動のなかで山陵修補が開始される。山城国34基、大和国24基をはじめ天皇陵の109か所が、慶応元年(1865)5月までに修陵された。文久の修陵を通じて、白砂敷きの方形拝所、拝所の正面には鳥居と内側に一対の灯籠という、墳丘を聖域化し拝礼する近代につながる景観が登場する。そして慶応三年(1867)王政復古の大号令による「神武創業」の理念を経て、1889年の大日本帝国憲法発布にあわせて、すべての天皇陵が決められた。
大正期の津田左右吉『神代史の新しい研究』(1913年、二松堂書店)および『古事記及び日本書紀の新研究』(1919年、洛陽堂)の、5世紀から7世紀までの政治思想が記紀神話に反映したとみる古代史研究における記紀の史料批判の方法論は、1940年2月、皇紀二千六百年紀念祝典の熱狂の中で有罪判決がでるように、戦後古代史になってやっと常識となりえた。しかし戦前期には記紀の記述をそのまま信じることは、アカデミズムの場から小学校の教科書にいたるまで、ほぼ「国史」の常識であった。
報告では、社会に根づいた文献考証と「口碑流伝」の採集という「19世紀の学知」のありようと陵墓の問題を考えたい。
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