RE:西方的圣杯 中国的秘籍
戈兰 于 2005-12-28 14:50 写道:赫赫,蔷薇剑,你在水边玩月,俺的一块板砖,敲碎了水中的月亮,也惊醒了你的迷醉,死罪死罪。谁让俺是个鲁笨的人呢,不过,天地良心,俺那块砖头的目标真的不是你。
关于想象与现实,概念上谁都说得明白,但落实到 ......
是啊,理智地区分想象与真实,这是种学术的自觉。我十分惭愧还没有这种自觉,受刘大侠板砖温柔地敲两下刚好提提神,我还得请您喝酒呢,您何罪之有?
不过两个小问题,第一,您频频提到的大众文化与民间文化是什么关系?
第二,李商隐的第二首诗仍然是福尔摩斯挠头的案子,不太好破,历史学家也不会把它作为信史。时间是个相对时间(昨夜,一个有星有风的夜晚),不是有明确标志物的绝对时间;地点看起来有限定,但是如此微观的地理如果无法置入宏观地域将失去作为史料的意义(画楼西畔桂堂东);有人的活动,比如眉目传情啊,射覆等(但究竟是谁呢?)。看起来好像是具有了史学的三个基本纬度,但是诗中的三点资料(时间、地点、在场)都是游移的,只有至少其中之一在历史的三维里定住,才能将事件置入语境中,真正的历史解读才可以进行。否则,如同刻舟求剑。不知戈兰以为然否?
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
戈兰温柔地说: :D圣杯和宝剑的对比很有意思,这活好玩,黄兄动手咯。动手可要等到有一点灵感。…………:D。
[ 本帖由 黄景春 于 2006-1-6 10:25 最后编辑 ]
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
友梅以为,每个民族的文化中,都包含许多具有象征性的事物。它们成为文学的主题,正因为它们都包含非常巨大的张力。
我感觉宗迪找到了这样拥有最大张力的话题,但就阐释而言,我觉得还欠缺。
比如,对“圣杯”和“秘籍”的文化内涵挖掘,就还不够。
直言往遡,海涵。
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
黄景春 于 2005-12-28 18:12 写道:西方基督教之圣杯与中国皇权之宝剑,似乎也可以展开比较研究,这一双符号,一圣一俗,都在故事、小说中频现其身,甚可关注。
亚瑟王传奇既有“圣杯”,也有“宝剑”,闲闲书话有过一个帖子漫谈:http://www3.tianya.cn/New/PublicForum/Content.asp?flag=1&idWriter=0&Key=0&idArticle=37842&strItem=books
:)
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
“后来的研究表明,默里完全误入歧途了,因为她使用的材料主要是天主教会审判女巫的案卷档案,而那里面有的大多是教会法庭对于被告的刑讯逼供材料,那些材料几乎全部是天主教会关于女巫莫须有的想象,以及在这种想象下被冤屈和诬告的老妇人们的屈打成招,可以说,正是审判者和被告的合谋、权力和无权者的协作,才促成了女巫故事的成形,因此,默里的研究(民俗学研究)实际上成了教会权力以及这种权力所制造的历史幻象的代言人,岂不悲哉!但默里的研究却也自有其不可取代的价值,因为西方社会关于巫术和异端的想象,在她的著述中得到最典型的体现。这种想象在多大程度上影响了西方人的精神生活,这从《指环王》、《达芬奇密码》、《哈利波特》、《黑客帝国》等电影和书的风靡一时就可见一斑,但是,这种主题只有在当代才尘嚣甚上、愈见风靡,则又从一个方面说明了这种想象的生产与现代大众传媒以及文化消费工业之间的关系,正是文化工业觉得这种异类主题能投现代人所好,这类母题才被大量复制和生产出来(这与武侠电影在东方的畅销是一个道理)。因此,绝不能就因此相信巫术和秘教已经取代了理性和科学成为西方文化的主流,要是这样认为,就和上个世纪的默里女士一样上了大当。”
刘兄之论,在这一点上,实在是当代文化研究的穴道,明于此,而平安无事;疏于此,而险象环生。再推而广之,民间文化与大众文化的关系,民间文化的当代处境,这些现实与理论想象之间,究竟如何对应的,我们所作的判断多大程度只是源于一个尺度、一个事件、一种猜测?甚至是绝大多数的声音可能也只是假象。
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
子不语鸟兽鱼虫 于 2005-12-30 17:58 写道:亚瑟王传奇既有“圣杯”,也有“宝剑”,闲闲书话有过一个帖子漫谈:http://www3.tianya.cn/New/Public ... 37842&strItem=books
:)
感谢子不语兄指点门径,子不语不语则已,一语必涉怪力乱神。 :mad:
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
之农 于 2006-1-3 17:09 写道:刘兄之论,在这一点上,实在是当代文化研究的穴道,明于此,而平安无事;疏于此,而险象环生。再推而广之,民间文化与大众文化的关系,民间文化的当代处境,这些现实与理论想象之间,究竟如何对应的,我们所作的判断多大程度只是源于一个尺度、一个事件、一种猜测?甚至是绝大多数的声音可能也只是假象。
农兄所言极是呀,其实,说到底,神话研究孜孜以求的所谓原型,很可能就只是研究者的想象,无中生有的捏造,子虚乌有的圣杯,神话研究其实就是在创造神话。
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
说说圣与俗。 :)
涂尔干对圣与俗的问题曾经做了一个近乎绝对的划断,他说:“一切已知的宗教信仰,不管是简单的还是复杂的,都表现出一种共同的特征:它们必定把人们所想象到的一切现实与理想事物分成两个类别或两个对立群体,这两个类别通常可以由‘世俗的’和‘神圣的’这两个不同的词来加以表示。把一个世界分成两个领域,一个领域包含所有神圣之物,而另一个领域则包含所有的世俗之物,这是宗教思想的特征。”(《宗教生活的基本形式》)
涂尔干头戴欧洲19世纪三大社会学家(另两位是马克思、韦伯)之一的冠冕,享有崇高的文化威望,他的这个论断被其他宗教文化学者无数次引用,用以说明宗教认识世界的特点。涂尔干得出这个结论打上了他自己的基督教文化背景的文化色彩。基督教在信仰上的排他性,只允许自己的宗教称圣,其他宗教如伊斯兰教、佛教、印度教、道教、神道教等,都被它跟人间世俗生活一起置于俗的世界之中。其他宗教神圣或者至上性的东西,在基督教看来一钱不值,毫无神性可言。它不承认其他宗教的神圣性,这是一个很大的问题。
在中国也同样存在神化自己宗教而俗化其他宗教的情况。但是中国百姓却并没有多少信仰上的专一性、排他性,而是“见庙就烧香,见神就磕头”,对各教派的神仙都祭祀,也就是说把各家神圣都接受下来,这是中国老百姓的文化胸襟,同时也是中国老百姓的生存策略:毕竟神是超人间的庞然的势力,“宁信其有不信其无”,我们得罪不起还敬不起吗,给他烧炷香磕个头就是了。这时候,我们中国百姓也把宗教的圣与俗的鸿沟给弥平了,二者之间的界限荡然无存。
迷信所有的神,津津乐道所有的神仙故事和妖鬼传说,看看志怪小说从两汉到明清后浪推前浪式的发展轨迹,我们更加了然于此。中国老百姓不仅接受各种宗教的神祇,连世俗的皇帝、皇权、官员、知识分子,甚至牛马鼠蛇都给赋予了一定的神性(牛鬼蛇神是也)。在我们中国特色的世俗文化中,还有什么没有神性?还有什么具有真正的神圣性?这种神圣意味与世俗意味交互参合的信仰心态,用“迷信”一词来概括实在是比较准确的。
迷信是中国老百姓解释现实、接受现实的一种方式。
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
リーアン・アイスラー『聖杯と剣』
1991 法政大学出版局
Riane Eisler : The Chalice and The Blade 1987
野島秀勝 訳
おとといの土曜日、ISIS編集学校の関西連中が大阪は谷町のホテルルーテルの3階ホールに集まって、花羞しくも賑やかに「奇内花伝組」を旗揚げした。組長には「円陣フライト教室」の師範代・貝塚英樹君が立った。
この日はぼくも大きな書を寄せ(それを「ジャムループ教室」出身の石田加奈がバティックに表具した)、「きららひびき教室」の師範代・日高裕子の明るいけれども芯のある名進行に合わせて、大川雅生や木村久美子とともにリアル稽古をつけたり、「千夜千冊」解読をするお役目を引き受けた。
師範・師範代・生徒・事務局が9期をまたいで土地柄を背景に、総勢50名をこえて勢揃いするのは、なかなかの“立派”だった。人生だけがやたらに長寿で、決意したことは何事も短命におわる世の中、こういう動きこそが重視されていってほしい。これからどんなことを活動していくかというのが、たのしみである。
その旗揚げ「初会講」の第2部で、校長(ぼくはここでは校長と呼ばれている)に尋ねる質問がいくつも束ねられ、いくつかの問いに答えた。
そのなかに「校長は精神的な愛を重視していて、肉体的な愛情はあんまり求めていないようですが、そうなんですか」というものがあった。正直に答えた。いえ、ぼくは肉体的な快楽も大好きです、と。
が、この答えには少し解説がいる。それをちゃんとすれば、それこそがミシェル・フーコーや上野千鶴子に続く新たな思想に審級するほどのテーマになるのだが、そういう大掛かりな話はさておき、いささかコメントを並べる。今夜、なぜ本書を採り上げたかはそのなかで説明する。
まず精神と肉体を分けて、快楽をこのどちらかに分別してしまうというのが、ぼくには耐えがたい。いつからそのように思ってきたかというと、おそらく少年期からそうだった。が、それはぼくがおかしいのであって、さあ、この感覚は何だろうと困っていた。
ユング派のジューン・シンガーが書いた『男女両性具有』(人文書院)という本がある。性意識というものはそもそもアニマとアニムスが交じっていて、容易には分断できないものだというものである。そういうことを書いている。
ぼくにあてはまるのはこれなのだ。あてはまるのはぼくだけではなく、多くの人士にもあてはまるだろうが、ぼくはこれをかなり明確に意識してきた。ただし、ぼくの身体の特徴のどこかに両性具有の兆候があるわけではない(まったくないかどうかも、わからない。たとえばぼくは短小仮性包茎だが、いったいこれは何かと言われると、よくわからない)。
それよりも意識がそもそも両性具有であろうとおもう。しかし、これをもって「男っぽい」と「女っぽい」の両方がぼくの中に共存していたなどと単純に平和的に考えてもらっては困る。そうではなくて、とりあえず前夜「千夜千冊」の“国家と賭博と男と女”のデンをひいていうなら、たしかに両極には男性性と女性性はあるのだろうが、そのあいだが何通りもグラデーションになっているという、そういう両性具有なのである。しかも、そのグラデーションの目盛たるや、時と場合と気分によって、どこにでも動く。
ようするにぼくにあるのは超越男女感覚なのである。それがPとVとAにそれぞれ片寄ってあるのではなく、PにはVもAもあり、女性のVをいじっていてそこにPを感じることもあり、それどころか、男や女がどんな恰好をしていて、その襟元や袖口がどのように動き、今日はこんなアクセサリーが彼女に揺れているというただそれだけで、この目盛は右にも左にも動くのだ。
だからセックスが好きかと言われれば好きだと答えるが、そのセックスはこよなく多様なものであり、セックスが嫌いかと言われれば、そういうときもかなりあり、それはそのセックスが多様のはかなさを失っているからなのである。
いまでもよく憶えているが、ぼくは少年の頃は従姉妹の指がこの世で一番美しいものと思っていた。むろんマニキュアも何もない少女の素の指である。けれども長じて、誰かのマニキュアの指の動きだけを見て、ときどきぐらぐらっとすることがある。べつだん、その女性がほしくなるなどというのではなく、その指が世界になってしまうからだった。
こういうことが多いので、ぼくはしばしば自分が主宰する会には誰にでも好きな恰好をしてもらいたいと思ってしまうのだ。好きな髪形で、好きなアクセサリーをつけ、好きな品格で。この数年、ぼくの周辺で着物姿がたいそう多くなっているのは、このせいだ。むろん男にも同じ気持ちがあるので、牧浦徳昭には何かにつけては着物を着てもらう(彼は着物が極端によく似合う)。いや着物とはかぎらない。かつてよく会っていた『ロック・マガジン』の阿木譲には黒い革パンがよく似合っていて、それを穿いてこないときは、なぜ革パンを穿いてこなかったか、怒ったものだった。
これはロラン・バルトが少女の恰好をしてスカートを穿いて写真に映っていたという一枚の写真を見たとき(第714夜『テクストの快楽』)、太田香保が「これってひょっとすると松岡さんの謎を解く写真ですね」と言ったのが当たっていて、ぼくは少年の頃に少女の恰好はしなかったし、むしろ小さなマッチョや中位のタカラヅカやでっかい恐竜や空飛ぶトンボにもなったけれど、そういう“なりふり”をこえて、いわばアンダーに、ぼくの意識をめまぐるしく交差していた超越男女感覚というものなのだ。
そこで本書になるのだが、この本はかつてアシュリー・モンタギューが「これは『種の起源』以来最も重要な著作だ」と、ダニエル・エルスバーグが「おそらくわれわれが生き残るために最も大事な鍵となる本」と絶賛したものである。
いろいろ書いてあるけれど(そうとうにおもしろい)、中核の内容をごく簡潔にいうと、歴史のなかでマトリズム(母性性)とパトリズム(父性性)がどのように分断され、しかし、にもかかわらず、神名やイコンや器物表現には、それらの分断以前のシンボリズムがどのように活発に“再生”されていたかを議論した。力作である。つまりは、われわれは何に支配されるかという問題を扱っている。
それが歴史だけでなく、われわれのささやかな個人史にもあらわれる。話を戻せば、問題はその支配された相手に応じて、自分の性意識が形成されてしまっているということなのである。いや、父親や母親やお姉ちゃんや彼氏に支配されたと意識していなくとも、そこに潜在するものがあれば同じことで、やはり性意識に過剰な男性不信や女性蔑視や、その逆の「やらずぶったぎり」があらわれる。
かくして重要な鍵になるのが、そこからの脱出と変更である。自己編集である。ふつうならば、これは往々にしてマトリズムかパトリズムからの個人的な脱出過程になるのだが、ぼくはこれを母親性や父親性だけに限定しなくともよいと思っている。いいかえれば支配されたのは、少年少女期からもっと多様に分散されていたもので、それがたまたまマトリズムやパトリズムが集約されて誰かに象徴されてしまっただけなのだ。
ぼくは幸か不幸か、少年期に支配されたとおぼしいのはつねに部分的なもので、それをセクシャリティに絞っていっても、竹ヒゴ飛行機のゴムの音だったり、音楽の先生のスカートの中だったり、メンコの擦れた鞍馬天狗の色ずれ甚だしい天然色写真だったり、従姉妹の指だったりしたわけなのだ。
むろん優しい母や強い父からも、また叔父や先生や友人からも影響を受けてはいるが、それが母や父やその他の人物の人格に集約されはしなかった。母親についてもその綴り文字やエプロンを慕ったのである。漠然とお母さん、加奈子ちゃん、吉田先生に憧れはしなかった。むしろ一人の人物に集約して、自分の影響を認めようとしたのは、青年期以降のことである。これは積極的にそれをした。いまでもぼくはそのことを怠らない。
それまでは、準備過程として、自分が少年期に影響を受けたものをちゃんと列挙して、ひとつずつをいとしむようにした(そのため「記憶事物ノート」というものを用意して、これにスケッチ入りで綴っていった)。そして、その大半に子供用自転車や母親の鏡台とともにお別れをした。
ここで、ちょっとしたヒントを言いたい。
おそらく多くの悩める諸君のなかには、現在の自分が過去の自分に結びつきすぎていて、新たに自分が影響を受けたいと思っている思想や行動や人物に自分を投与できないでいるままにいることが少なくないのではないかとおもわれる。しかし、これは怠惰なだけなのだ。
まずもって、過去の影響をちゃんと認めなさい。それが今となってはいまわしく思えるものであれ、だ。とくにその場合に、人物だけでなく、風景や事物や言葉を思い出すことだ。
次に、そのうち、現在でも継承したいものを選ぶことである。が、きっと多くは今では失われているものが多い。風景は変わり、先生は亡くなったか、もう齢をとっていて、かつての住んだ家もない。そういうときは、これらを現在に引き継ぐ意識とは別のアーカイブにすることだ。そして継承したいものをしっかり見きわめる。言葉なら多くは今でも死んではいない。
そのうえで、現在の自分が支配されたいもの、影響されたいもの、所属したいものをまっすぐ凝視する。たいていはこれが揺らぐのである。過去と現在がごっちゃになり、自分がたった今、向かっているものに自信がもてず、他人から何かを言われると、すぐにぐらつく。君はショパンなどにいまだにいかれているのか、またまたあの男の話ばかりなのか、なぜ荷風ばかりがそんなに偉いんだ? こう誰かから言われると、すぐに弁解をするか、そうでもないと自分でも思ってしまう。ようするに、今、何に惚れているのかがはっきりしない。
これはダメである。自分が当面感じているセクシャリティをごまかすだけのことになる。そういうことを言ってばかりいる者からはセクシャリティは発揮されるはずもない。いま好きなもの、それをこそに全哲学を投じるべきである。そして、それが飽いたら、また次に進めばよい。こうすることが既存の支配権力からの脱出力を鍛えていける唯一の方法なのだ。
校長への質問から少し話がずれたかもしれないが、以上、校長は精神と肉体のいずれの快楽も、またその「あいだ」のいずれの快楽も、それがぼくにとっての快楽なら、すべて受け入れ、すべて提供したいということなのだ。それはごくごくちょっとした頬ずりやキスや囁きを含めてのことだ。
本書には、性の歴史の誤謬があるとすれば、それはたいてい理性の過誤がもたらしたものであるという主張が通っている。その理性は歴史でいえば近代の理性ということになるが、それはたいていは原始古代のアニミズムやシャーマニズムを肯定しない。実は心の中ではそういうものに惹かれていても、面とむかっては持ち出せない。
ぼくは思うのだが、ぼくが好きな稲垣足穂や杉浦康平やJ・G・バラードや編集学校や未詳倶楽部や上方伝法塾は、ぼくが自分のアニミズムやシャーマニズムを賭けたって、好きなのである。
それを誰かが、松岡さん、またタルホですか、杉浦さんですか、編集学校ですか、サロンですか、着物ですかと言われようとも、君がそれに面と向かって総力をあげる気がないなら、早々にぼくから目をそむけなさいと言うばかりなのだ。
では、よろしいですか。ぼくは精神と肉体を少年のころから分けないで生きてきたのです。
RE:西方的圣杯 中国的秘籍
书影与人影RE:西方的圣杯 中国的秘籍
书影与人影RE:西方的圣杯 中国的秘籍
这本书也出过中译本。RE:西方的圣杯 中国的秘籍
中文版书影RE:西方的圣杯 中国的秘籍
刘宗迪所谓“秘籍母题”,在小说中的表现还是不少的。简单罗列几篇古代小说:(神仙传)张道陵——神书
十洲记——五岳真形图
汉武帝内传——五岳真形图、灵飞十二符等
三遂平妖传——天书
三国演义——天书(第一回张角遇南华老仙所赐)
女仙外史——秘笈
水浒传——天书(宋江两度得到)
绿野仙踪——天书秘册(冷于冰先后得到两部)
(初刻拍案惊奇)何道士因术成奸 周经历因奸破贼——天书
封神演义——封神榜
得到天书秘笈者则得道成仙、称王称圣;失去,则顿失法术神通,终至败亡。
现当代武侠小说,追踪秘笈的也不少。当然,追踪宝剑的也不少。
宝剑也好,秘笈也好,确如宗迪兄所言,都打上了神性,不仅是凡物。
[ 本帖由 黄景春 于 2006-4-8 23:15 最后编辑 ]